15号 昭和41年(1966年) 先輩訪問

林屋 三平 (本名 海老沢栄三郎) 落語家

一時に文放送のロビーで対面。スケジュールの表を見ながら大変忙しい日程を裂いてのインタビューである。
例のパーマネントに細いマンボズボンといういでたちの先輩であった。

まず、何年頃卒業されたのですか。
昭和19年、戦争中だっただすね。あれ、戦後だったかな?(笑い)
なにしろ古いあれなんで・・・・。
得意な学科といいますと。
やっぱりしゃべるのが得意なんで、国語とか漢文系統が得意だったですね。
英語はダメでしたね。数学なんていったらテンデダメでした。
何かエピソードはありますか。
あんまりいい生徒ではなかったけれども悪いこともあまりしなかったですね。
一時、悪い時期があって、カンニングなんかをやったことがあるんです。
みなそのカンニングペーパーを証拠隠滅のために飲んじゃうんです。(笑い)
カンニングペーパーを飲まないで中にはあわてた奴が答案用紙を飲んだりしてね。(笑い)
こりゃちょっとオーバーだけど。ヤッパこういう卑劣な手段てのはよくないですね。
今頃思っているんだけどその当時は夢中だったから。(笑い)
いつ頃から咄家になろうと思われたんですか。
おやじが咄家をやってたんですよ。先代の林屋正蔵といいまして、・・・・・。
戦争が終わってブラブラしている時に咄家でもしようかと思ってね。
カエルの子はカエルで。学生時代から好きだったわけではないですね。
あだ名はありましたか。
当時はめだたない生徒だったんで別にないですね。
栄ちゃん、栄ちゃんて言われたぐらいで。
髪形はいつ頃からそういうふうにされたんですか。
遺伝の法則でしておやじもちぢれているんですよ。
売り出す時、今は言葉でやりますけど。
例えば「やんな!!」だとか「いいじゃない」とかね、当時は言葉じゃなくて形とかアクションで売り出したんですよ。
そこで何とか特徴をつくってテレビで売り出そうと思ってこういうモジャモジャしたもやしみたいな髪にしたわけです。
何かモットーはありますか。
昔からおやじに言われたことなんですけど、どんなくだらないことでも一生懸命やれっていうことね。
そうすれば後でスカットとさわやかコカ・コーラじゃないけど、遊びでも仕事でも何でもね。
入学試験の思い出なんかありますか。
競争率は三人に一人だったんです。
おふくろは発表の時に見にゆくのがやだっていうんですよ。落ちているのがいやだからね。
僕もいやだったんだけど。二人ともいかないとわからないからしょうがなしに行ったんですよ。
そしたらビリから三、四番あたりでああよかったと言ったら後でもよかったって言っているような声がしたんでふり返ってみるとおふくろだったりして。(笑い)
御趣味はなんですか。
別にないですね。仕事が趣味みたいなものですね。これが一番もうかるからね。(笑い)
クラブ活動は何をやられたんですか。
今考えるとおかしいようですけど作家を志しまして、同人雑誌を出したんです。
そしたらだれかが文藝春秋からそのまま盗作やったりしてね。
これは関係ないんだけど、文化学院があるでしょ、あそこにきれいな女の子がいるんでね。(笑い)
こっちに神田女学院とかいうのがあるでしょ。
化学実験室っていうのがあってね、その窓際が大変いい場所でそこで鏡をこうやったらむこうからも来た、という伝説があるんだけど、そこまで僕はやらなかった。(笑い)
では最後に後輩に残したい言葉は。
明高生は昔から男らしいところがいいところだから、これから学校でも社会でも男らしく正々堂々と胸をはって生きていってもらいたいですね。
どう? うまくいったね。(笑い)
<過程15号より抜粋しました>