我々同期生で大場隆之氏を「大場君」とか「大場」という者はいない。親しみと心からの敬意を込めて「大場ちゃん」とか「大場さん」と呼ぶ。先輩諸兄でさえそうである。 戦後の混乱が幾分安定し始めた昭和24年(1949年)、明治中学校への入学である。折しも熱烈なる福島先生の御指導の下、生徒会が発足、生徒協議会第一期の協議員(兼学級委員)である。第一代生徒会長は橋本氏、そして石橋氏、杉山氏、富田氏、須藤氏、田村氏、 中田氏、・・・・と、草創期生徒会は強い母校愛を力に驚異的に発展していくのである。 大場さんは諸先輩の薫陶を一身に受け、やがて生徒会書記に抜擢され高校3年で第六代生徒会副会長に選出され、朋友田村との名コンビで生徒会史に燦たる伝説の黄金期『大場・田村時代』を現出するのである。当時の生徒会新聞、過程、校史等でご確認いただける様に、多くの同好会誕生、本部直轄の「すぐやる課」のような生徒会実行委員会の新設、盛大な生徒会新入生・卒業生の歓送迎会、美空ひばり独唱会(於大学記念館講堂)、パン安売ディー、武術大会、臨機の生徒全校集会等 、時に意表をつく大胆な政策、行事も実行し全生徒の生徒会に対する関心、集中が高まっていったのである。その功績は先生方からも高く評価され、優秀な学業成績と相俟って卒業時大橋校長より異例の「特別自治功労賞」を授与されるのである。 時を経て昭和50年代後期、卯木敏夫氏(昭和26年卒)の提唱により昭和57年(1982年)3月、二十クラブOB数百名が体育館に集い「明高クラブOB会」発会式の運びとなる。副会長として最初から参画した大場氏は矢島氏、小川氏等と共に日々その組織作りに奔走、その後総明会の一部門として吸収され同窓会組織拡大強化の大きな力となるのである。 総明会に於いて大場さんは事務局長、専務理事、監事と要職に就き永きにわたり尽力されたことは関係者の広く知る所である。 大場さんの訃報は同期会石田幹事長、伊藤氏、西秋氏、総明会服部専務理事等から突然に電撃的に同窓に流された。平成15年(2003年)8月12日の通夜、13日の告別式には総明会向殿会長、山崎氏、尾島副会長、服部専務理事、小林顧問、応援團OB加藤氏、要職の卯木氏、中田氏、結城氏、同期会会長宇田川氏、そして多くの先輩、後輩、学友、会社、近隣の人々が強いショックを受けながら焼香に参列、弔意を表された。 危篤の連絡が奥様からあったのは8月9日、入院先の日本医大病院の地元に住む同期の安藤夫妻、田村夫妻、そして主治医だった同期の新田氏、大林氏両医師が駆け付けた。10日午後、酸素吸入をしていた大場氏は、「大場さん、わかりますか?」の呼びかけに少し眼を開けて「わかります」とかすかに微笑んだ。これが大場さんの最後の言葉だった。8月11日、朝7時55分、45年間連れ添った多津子婦人、長男康之氏、姪御さんに見守られ永眠。肝硬変。9月1日で満69歳。 普段は会社人間。でも日曜日などは奥様手作りのお弁当を持って住まい近くの袖ヶ浦海岸、公園などに家族で出かけ団欒を楽しんだ。 ご長男の勤め振りを見て「自分の仕事を厳しくやっている」と評価し、父として誇らし気であった。 思えば大場さんほど常に人のことを思いやる人柄は稀有である。 あの笑顔を優しい穏やかな話し振りは大場さんに親しかった人すべてが癒され、安心感、幸福感に満たされる。険しい表現を見た事が無い。いつも仏様の様な温顔である。50有余年にわたる大場さんとの思い出は何時間かけても語り尽くせない。どれ程私の人生に心の安らぎ、勇気、智恵を与えてくれたことか。そして中高時代の事を阿吽の呼吸で言葉少なくとも分かり合う事の出来る最大の親友を私は今失ってしまった。何と悲しく淋しいことか。 「虎は死して皮を残し 人は死して名を残す」という。 明治中高史、同窓会史、生徒会史に「大場 隆之」の名は確と残されそれは不滅である。 大場さん・・・・。先に逝った親友の団長和田氏や植田氏、恩師福島先生、松枝先生、諸先輩、学友としばらく談笑していて下さい、少し遅刻しますが必ず行きます。 同期友人 第六代生徒会長 田村 正彦 |