校歌誕生秘話  「白雲なびく ・・・」は、こうしてなびいた

わが明治大学付属明治高等学校・中学校には校歌が3つあるのを知っていますか? 古くは「帝都の真中」から今使っている「白雲なびく」でおなじみの現在の校歌まで、それぞれの卒業生によって違った校歌が歌い継がれてきたのを知っていますか。
2003年7月5日(土)明治大学百周年記念会館においておこなわれたクラブOB会席上、應援團OBの小田川玉城氏の挨拶の中で、なぜ現在の「白雲なびく〜」が大学と同じ校歌として高校でも歌われる様になったのかのエピソードを教えてもらいました。会報委員会では小田川氏の言葉をベースに、2000年の会報や六十周年記念誌などを調べ、校歌の歴史について調査してみました。

小田川氏は1950年(昭和25年)に卒業され、明二会(めいじかい)の命名者であられると共に、現役当時は應援團の初代団長を勤められました。

 六十周年記念誌によると1927年(昭和2年)1月に学校教練等で行軍の機会に、行進にあわせて唄える様にと「帝都の真中」の歌詞はそのままに曲だけを変更したという記載があります。
1945年(昭和20年)8月15日終戦を迎へ、日本軍は占領軍(GHQ)統治下におかれ日本解体とも言える様々な改革がおこなわれました。
 占領軍は軍国主義の根本がその教育制度にあると考え、民主主義の徹底を図るため、軍国主義的なもの、天皇主権制につながる恐れのあるものは、全て排除してしまいました。本校の校歌の歌詞もその対象となり、「世界に冠たる日本の」等の部分が軍国主義的であるという理由で自粛するよう指導を受けました。
 その時点で本校に校歌が無くなってしまったわけです。

 小田川氏の入学式(昭和19年)の時は、「帝都の真中」を唄われたそうで、翌年は戦争により入学式が無く、「帝都の真中」を歌った最後の世代になられたそうです。1945年(昭和20年)という年は3度にわたる東京大空襲により、校舎は類焼を免れたものの町は焼け野原になり、卒業式も入学式もおこなわれなかった年だった様です。
 1946年(昭和21年)に中学野球部が創部され、第二十八回全国中等学校野球大会が再開、大柴武男氏により應援團も創団されました。しかし、まだ校歌はありませんでした。そのような中、東京六大学野球連盟の秋季リーグ戦が開催されるため、八巻恭介明治大学應援團長他が明中生に、大学応援歌と大学校歌の指導に見えられました。この時全校生徒が校庭に集合し、初めて「白雲なびく〜」を唄いました。

 1948年(昭和23年)学校改革により旧制中学校は「明治高等学校」となり、前年中学4年生は高校U年生になりました。この年、明治高校野球部島岡監督(故人)より明治高校應援團結成の命を受け、夏の東京地区予選を控えた時校歌のない現状に気付き、当時の應援團幹部数名が畏敬の念を抱いていた 生徒監(生徒指導)の野木晋一朗先生に勇を鼓して交渉をおこなったところ、 職員会議にかけるまでもなく、まさに鶴の一声!「良いだろう」との即断にて「白雲なびく駿河台〜」が、明治高等学校の校歌として誕生したのです。

 こうして明治大学と共に我が明治高校・中学校でも「白雲なびく駿河台〜」を歌う様になったと言うことです。
 こんな校歌の歴史、少し頭の片隅において総明会当日校歌斉唱してみませんか。
 学生注目!