※写真左から、林信隆先輩、長谷川順一先輩
田井武史先輩、秋山光億先輩、古宇田大介先輩。

 長年明高・中で、英語を担当していただいた小田島利晴先生が、平成12年11月21日、死去されました。享年58歳でした。

 小田島先生には、多くの方々がお世話になったことと思います。そこで今回は、小田島先生を振り返る企画として、晩年に先生によくお世話になった、平成9年度卒のOBの方々が対談することになりました。

 この対談を見て、小田島先生の授業や人柄を他のOBの方々も思い出していただければ、と思っています。
存在感のあった先生、題して「くま」

M編集委員(以下M)


 皆さんが、小田島先生に初めて習ったのはいつでしょうか?

田井先輩(以下田)

 (高Vの)ライティングの時じゃない?

古宇田先輩(以下古)

 いや、中学からのメンバーは、中学二年の時に(英語)で習っている。

林先輩(以下林)

 僕は、先生が(新聞班の)顧問だったから、中一からかな。



 第一印象はどうだったでしょうか?

長谷川先輩(以下長)

 かなり大昔だからね。

:難しいね。

:存在感があったね。

:うちら、「くま」って呼んでたもん(笑)。やべえな、美化しといて。「プーさん」とかに(笑)。
「テストは満点を取るのが当たり前だ」

:中学生からみれば、大きい方だったんですね(笑)。
  小田島先生の授業はどのような感じでしたか?

秋山先輩(以下秋):普通ですね(笑)。

:あのね、俺の記憶をたどっていくと、あの人は教科書に忠実な人だった。で、問題と答えも教科書に忠実だった(笑)。

:中二の時はプリントが配られたのね。で、ほとんど教科書とプリントから(テストの)問題が出るんだ。

:そしてあの人が言った言葉は、「テストは満点を取るのが当たり前だ」(笑)。
「小田島には小田島の教え方がある」

:小田島先生、といえば柔道部の顧問だったのが有名ですが、柔道部ではどのような感じだったのでしょうか?

:記憶にあるのは、前回り受身(の指導)の時に中谷(田井先輩と同学年の柔道部員)を骨折させた時だね。

:うそー?

:そんなことを含めて、先輩達からマイナスイメージをもたれていたけど、一生懸命教わる内に「小田島には小田島の教え方がある」という風に再評価されてきたけどね。

:俺は生徒会やりながら柔道部に所属してたから、あまりでかい顔はできないけど、だじさん(小田島先生の愛称)にはかわいがられたね。

:小田島先生は、皆さんが卒業されるまで病気という気配はしませんでしたか?

:なかったね。

:舌癌って言ったら分かりそうだけどね。

:あの人は「健康の極み」ってイメージだったもんな。「日本人は、朝食うもんだ」とか言って、うな丼食ってたらしいから。(笑)
「お前には根性が足りない。
お前には、ごぼうを掘るような
根性が必要だ」

:最後に、小田島先生を振り返ってみてどんな先生だったでしょうか?

:気さくによく話し掛けてくれたね。

:だじさんは、その生徒と触れ合って、一番必要なことを見抜いてくれる先生だった。
 今でも忘れないのは、だじさんからもらった年賀状。一番最後には「お前には根性が足りない。お前には、ごぼうを掘るような根性が必要だ」って書いてあって。
 そういうことを言ってくれる人も、今じゃいないんだな。

:露骨さが、(小田島先生)らしいよね。

:だじさんには、嫌味っぽいところは一つもなかった。いつも直球勝負だったよ。

:なんか、学校に「やすらぎ」をくれるような先生だったと思うよ。

以上の対談からも、小田島先生のよき人柄が

感じ取れていただけたかと思います。

「いつも直球勝負だった」、そんな付き合い方を

生徒にしてくださった小田島先生への感謝と共に、

先生のご冥福をお祈りします。